黒い炎を灯す 世界的な
アナキズムとサンジカリズムの歴史と政治
2010年 11月2日にブラジルの
サンパウロで行われたルシアン・ヴァン・
デン・ヴォルト氏のトーク書き起こしです。
本日来てくれたみなさんに感謝する。祝日であることはわかっている。なので、来てくれてありがとう。さて、『ブラック・フレイム』の内容は膨大だ。本書全体を語るとなると複雑な話しになる。議論の時間になればいろんな議題に関して深く掘り下げることができるかもしれないが、トークの中では主要なテーマについて強調して話をしていく。ちなみに本書には続きがある。『ブラック・フレイム(黒い炎)』が第一巻で、第二巻が『グローバル・ファイヤー(世界的な火』である。
用語について
私がサンジカリズムと言うとき、
英語の使い方に沿った特定の意味を指す革命的サンジカリズムまた
はアナルコ・
サンジカリズムを意味していることを理解してほしい。
決してローマ系言語における
労働組合一般をさしているわけではな
いので注意してほい。あと、私が
アナキズムと言うとき、
大抵はサンジカリズムを含んでいる。
サンジカリズムは
アナキズムの一部であるからである。
このような本、つまり
アナキズムを扱い、しかも(
アナキズムの歴史を扱う際におちいりがちな)
ヨーロッパの一部に注目するのではなく真に世界的な視点に立つ場
合、必要なのは主題を注意深く定義することである。
「
アナキズム」
とそれ以外を分ける境界線をどこに置くかはとても重要だ。
これは分析と調査において大事なことだ。
勝手な線引きをして特別な印象を与えようとするという話ではない
。
ゆるやかな定義の問題点は研究の対象となる明確な主題がないこと
にある。含めるものと除外するものがあいまいになり、
恣意的で不合理なものとなる。英語では、ピーター・
マーシャルによるよく知られた調査がある。
これはで重要な本である。
しかし
アナキズムの定義はとてもゆるやかなものである。
アナキストであることは「権威」に、特に政府の「権威」
に反対することであるといった定義だ。「権威」がなんなのか、
ここでははっきり定義されていない。
これから私が明らかにするように、理由がなんであれ、
政府に反対することすなわち誰かが、
あるいは何かが
アナキストであることを定義する十分な根拠とはな
りえない。
この手法を用いて、
マーシャルが政府介入に反対したという理由で
新自由主義者のマー
ガレット・
サッチャー、
または
カストロ政権の官僚主義に多少批判的であったという理由で
マルクス主義者のチェ・
ゲバラを
アナキズムの研究の対象としたことがわかる。
この二人は政府を大切にしていたが、
特定の形態に限って反対していたのだ。
思い出して欲しい、
サッチャーは賃金を下げ、
収入を富裕層に移行することで産業をつぶすことによってイギリス
の
福祉国家や
労働組合を破壊したのだ。
政府に反対したといっても、
自由市場への介入に反対したに過ぎない。
抗議行動参加者や
ストライキをした労働者を殴るためやフォークラ
ンドを侵略するためなら喜んで政府の力を使ったのだ。
ゲバラにしても、ジョセフ・
スターリンを敬愛し、
ロシア独裁と協力し、
秘密警察を備えた1党制の政府を
キューバに建てる手伝いもしたの
だ。
たしかに
カストロ政権の要素のうち反対していたこともあったが、
ゲバラ自身が建立や維持に貢献し、見捨てることはなかったのだ。
「反政府」にとどまらない
アナキズムを政府に「反対」することだと定義し、「反対」
する方法もゆるやかで曖昧な使い方をするならば(政府の廃止を望むのではなく少しの変化を望むことも含まれることになるだろう)、当然
サッチャーや
ゲバラもその
アナキズムの一部とすることが合理的である。
分析すると、問題はもっと深いものだ。
アナキズム(無政府主義)が単なる反政府思想であるとするマーシャルの言い分が、恣意的ではなく矛盾もないものかどうか考えなければならない。
しかしそのように
スターリンや
毛沢東を含める
アナキズムを定義するのはとても問題があることだ。
スターリンや
毛沢東は激しい政府による弾圧や
一党独裁と関わりが深い。歴史的な
アナキズムが多元性、議論や基本的な政治的権利または市民権を支持したといっても間違いはないだろう。しかしそこに
スターリンを持ち込めば、多元性、議論または基本的な政治権や市民権を支持してきたとは言えなくなる。
同様に、
新自由主義者は政府に懐疑的であり、経済全体または経済取引において政府の力がおよぶ範囲はできるだけ小さくするべきだと信じている。なので、
アナキストであることすなわち反政府であることであるなら、JSミルやミースや
ハイエク、さらにはチリのピノチェトまでを
アナキズムの伝統に数えなければならなくなる。なぜなら以上の誰もが政府による介入を信頼せず、自由市場が解放をもたらし、効率的で自然であると考えたからだ。
CLARITY OF ANALYSIS
分析の明確性
しかしサッチャーもアナキズムの一部とするなら(ミルやその他くらいでや得ておくにしても、確かに私はそこに留める理由がないと言ったところだが)、資本主義や賃金制度、私有財産に反対することといったアナキズムの歴史の一部といえる要素も、歴史的アナキズムとは無関係か本質的ではないものとして扱うことになる。
つまりここではアナキズムが(スターリンによる)一党独裁国家や(サッチャーによる)自由市場、一党独裁および多党国家でいっせいに政府介入を減らすこととも矛盾しない考えであることになってしまう。
歴史を通して、それぞれの方法で政府に反対する人々を見つけることができるが、そのだれもを「アナキスト」としてとらえることは分析の行き止まりに等しい。
アナキズムが単に反政府であるというなら、スターリンやピノチェトもアナキストに数えなければならない。しかしスターリンやピノチェト、マルクス・レーニン主義者や新自由主義者、左派や右派の独裁者、それとその他の人々も数にいれるなら、どこにもかしこにも「アナキスト」がいるということになり、アナキストとはいったいなんなのかさっぱりわからなくなる。
以上の人々を残らず「アナキスト」と呼ぶことはできるが、その場合、「アナキズム」と呼ばれるものがそもそも存在するのかどうかあやしくなってくる。なぜならほかのものと区別できないからだ。こうなると、アナキズムを研究したり理解しようとしたりするということ自体が、そもそも不可能となってしまう。
歴史的なアナキズム
しかし別のやり方がある。アナキズムは歴史の中の特定の地点から、新たな大衆運動として出てきたものであり、当時目にした人には革命運動であたことが明らかであったという見方である。次にその運動が何を目的としていたのかに注目し、歴史的にどのような道をたどったのかを考える。その後運動が発展した歴史的条件を物質的、知識的および社会的にそれぞれ理解し、社会的な力としての盛り上がりと衰退の歴史を社会分析を通して説明することができる。ほかにも思想の進化、または歴史を検討することができる。そして運動の中のアナキストの系統、アナキスト作家の古典を割り出すことができる。
つまり、アナキズムを歴史化すれば、その輪郭を描き、説明をし理解することができるのだ。
アナキズムが政府に反対することだという主張をするなら、確かにそこらじゅうにアナキストを見つけることになるだろう。マーシャルがエデンの園のアダムが神に背いたことから最初のアナキストであったと言うとき、それはつじつまのあった主張である。問題は、分析的に見ると、アナキズムが人類の歴史において普遍的なものであるというなら、社会的条件を変革するという点の説明ができないことになる。アナキズムが人類の自然な形だというなら、深刻な分析的問題が発生する。アナキズムが人間にとって自然なものであるなら、人類史の多くは説明できない。その大部分は抑圧や搾取、支配層の労働者や貧乏人に対する権力拡大が占めているからである。
ここで、ある問題にとりかかる必要がある。あらゆる政治運動、世界を変えようという運動はそれぞれ一連の神話を作り出すことになる。アナキストも自ら神話を作り上げてきたといえる。アナキズムが人間社会普遍的な特徴であるというのも解されにくい、議論の的となる運動を認めてもらおうと名を残したアナキストのうち何人かが主張したものである。
アナキズムが不変的でずっと前からあるものだという主張は、新しくなんだかわからない、深いのうな運動であるという見方をかわすには単純で簡単な方法だった。しかしいくら政治的に使いやすいものだとしても、正しい主張とはいえない。